平沼騏一郎
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平沼騏一郎 | |
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第35任日本内阁总理大臣 | |
任期 1939年1月5日-1939年8月30日 | |
君主 | 昭和天皇 |
前任 | 近衛文麿 |
继任 | 阿部信行 |
个人资料 | |
出生 | (1867-10-25)1867年10月25日 日本美作國津山藩(今岡山縣津山市) |
逝世 | 1952年8月22日(1952-08-22)(84歲) 日本東京都 |
墓地 | 日本東京都多磨靈園 日本岡山縣津山市安國寺 |
专业 | 司法官 |
日語寫法 | |
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日語原文 | 平沼 騏一郎 |
假名 | ひらぬま きいちろう |
平文式罗马字 | Hiranuma Kiichirō |
平沼騏一郎(1867年10月25日-1952年8月22日),日本已故司法官及政治家,歷任大審院檢察總長(第8任)、大審院長(第11任)、日本大學校長(第3任)、大東文化大學校長(第1任)、樞密院副議長(第11任)及議長(第17、21任)、司法大臣(第26任)、內務大臣(第62任)及內閣總理大臣(第35任)。於第二次世界大戰後被定為甲級戰犯,被判處終身監禁。
目录
1 簡介
2 年表
3 榮典、授爵
4 系譜
5 飾演平沼騏一郎之人物
6 著書
7 研究書籍一覽
8 外部連結
簡介
平沼生於津山城下南新座(現岡山縣津山市),是家中次子。父親是津山藩士平沼晉。少年時上京,入讀同鄉箕作秋坪開辦的三叉學舍。其後入讀東京帝國大學(現東京大學)法學院,並於1888年以第一名自法學博士班畢業。
畢業後主要參與司法機構工作,歷任東京控訴院部長、大審院檢察官、司法省民刑局局長等職位,至1911年位任司法次官。1912年獲升為檢察總長、1919年為臨時法制審議會副總裁。
1921年升任為大審院院長。1923年第二次山本內閣中任司法大臣,翌年當選貴族院議員,並擔任樞密顧問一職。其後主持鼓吹復古日本主義的國本社。同時亦曾任樞密院副院長及院長一職。
1939年任內閣總理大臣,基本沿用上任近衛內閣的成員(甚至近衛也以國務大臣的身分參與)。同年8月受德國與蘇聯簽署互不侵犯條約影響,率領內閣總辭。
第二次世界大戰後被盟軍指定為甲級戰犯而被捕,在遠東國際軍事審判中被判終身監禁。1952年(昭和27年)因病獲假釋,同年病逝,終年84歲。1978年10月被靖国神社合祀。
年表
- 1867年10月25日(慶應三年九月廿八):出生於津山城下南新座(現岡山縣津山市),是津山藩士平沼晉的次子。
- 1888年(明治21年)
- 7月:帝國大學法學部(現東京大學法學院)第一名畢業。
- 12月:司法省參事官試補。
- 1890年(明治23年)
- 8月:判事試補・芝去治安裁判所詰。
- 10月:京橋區裁判所判事。
- 12月:東京地方裁判所判事。
- 1892年(明治25年)11月:千葉地裁部長。
- 1893年(明治26年)12月:横濱地裁部長。
- 1895年(明治28年)9月:東京控訴院判事。
- 1898年(明治31年)7月:東京控訴院部長。
- 1899年(明治32年)4月:東京控訴院檢事。
- 1903年(明治36年)10月:司法省參事官兼檢事。
- 1905年(明治38年)11月:大審院検事。
- 1906年(明治39年)1月:司法省民刑局長兼檢事。
- 1909年(明治42年)7月:大審院檢事局次席檢事兼民刑局長。
- 1911年(明治44年)9月:就任第2次西園寺内閣司法次官。
- 1912年(大正元年)12月:就任檢事總長。
- 1921年(大正10年)10月:就任大審院長。
- 1922年(大正11年)3月:就任日本大學總長。
- 1923年(大正12年)9月:就任第2次山本内閣司法大臣。
- 1924年(大正13年)
- 1月:貴族院議員。
- 2月:樞密顧問官。
- 創立國本社,標榜復古的日本主義。
- 1926年(大正15年)
- 4月:就任樞密院副議長。
- 10月:獲授男爵。
- 1936年(昭和11年)3月:就任樞密院議長。
- 1939年(昭和14年)1月:就任內閣總理大臣。
- 1945年(昭和20年)12月:被指定為A級戰犯。
- 1946年(昭和21年)4月:被補,囚於巢鴨監獄。
- 1948年(昭和23年)11月:遠東國際軍事審判中被判終身監禁。
- 1952年(昭和27年)8月22日:因病逝世。葬於岡山縣津山市安國寺及東京多磨靈園。
榮典、授爵
- 1916年(大正5年)1月19日:勲一等瑞寶章
- 1919年(大正8年)9月29日:勲一等旭日大綬章
- 1926年(大正15年)10月28日:男爵
- 1928年(昭和3年)4月21日:勲一等旭日桐花大綬章
系譜
(長州藩士)
飯田信臣……飯田包亮
┃
┣━━節子
┃ ┃
┏平沼淑郎━━廣女 ┃
┃ ┃
┃ ┃ ┏宣子
平沼晋━┫ ┣━━━┫
┃ ┃ ┗平沼赳夫
┃ ┃ ┃
┣平沼騏一郎…┏━平沼恭四郎 ┃ ┏平沼慶一郎
┃ ┃ ┃ ┃
┗藝子 ┃ ┃ ┃
┃ ┣━━━━╋廣子
中川友次郎 ┃ ┃ ┃
┣━━━━┛ ┃ ┃
貞以 ┃ ┗平沼正二郎
┃
(將軍) ┃
德川慶喜━━德川慶久━┳德川慶光━━━┳真佐子
┃ ┃
┗喜久子 ┗徳川慶朝
┃
高松宮宣仁親王
飾演平沼騏一郎之人物
宮城幸生『プライド 運命の瞬間』(東映、1998年〔平成10年〕)
伊藤幸純『太陽』(スローラーナー、2006年〔平成18年〕)
著書
- 『祭祀と事業』財団法人修養団、1938年(昭和13年)4月
- 『祭祀と事業衍義』興文社、1939年(昭和14年)6月 平沼騏一郎述、相良政雄著
- 『機外清話』財団法人修養団、1939年(昭和14)年7月
- 『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎回顧録編纂委員会、1955年(昭和30年)8月
研究書籍一覽
- 藤野豊「国本社における水平運動観―平沼騏一郎,中央融和事業協会会長就任の背景」、『部落問題研究』通号84、1985年(昭和60年)8月
加藤陽子「昭和一四年の対米工作と平沼騏一郎」、『史学雑誌』第94編11号、1985年(昭和60年)11月- 滝口剛「満州事変期の平沼騏一郎―枢密院を中心に―」、『阪大法学』通号151、1989年(平成元年)8月
- 滝口剛「平沼騏一郎と太平洋戦争―対外態度における2重性を中心に」、『阪大法学』通号159、1991年(平成3年)7月
- 高橋勝浩「首相平沼騏一郎と「道義外交」―防共協定強化問題と「支那事変」処理―」、『国史学』通号164、1998年(平成10年)2月
- 高橋勝浩「重臣としての平沼騏一郎―終戦と国体護持へむけて」、『軍事史学』通号142、2000年(平成12年)9月
- 鈴木望「平沼騏一郎博士と神習文庫―帝室制度審議委員会との関連に就きて―」、『東洋文化』復刊第100號(通巻第332號)、2008年(平成20年)4月
外部連結
近代日本人的肖像-平沼騏一郎(日文)
日本國立國會圖書館-平沼騏一郎相關文書(日文)
平沼騏一郎について(おかやま人物往来)(日文)
平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における施政方針演説(日文)
平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における国務大臣の演説(日文)
墓所(多磨靈園)(日文)
墓所(安國寺)[永久失效連結](日文)
官衔 | ||
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前任: 近衛文麿 | 日本內閣總理大臣 第35任:1939年 | 繼任: 阿部信行 |
前任: 一木喜德郎 鈴木貫太郎 | 日本樞密院議長 第17任:1936年-1939年 第21任:1945年 | 繼任: 近衛文麿 鈴木貫太郎 |
前任: 安井英二 | 日本內務大臣 第62任:1940年-1941年 | 繼任: 田邊治通 |
前任: 倉富勇三郎 | 日本樞密院副議長 第11任:1926年-1936年 | 繼任: 荒井賢太郎 |
前任: 田健治郎 | 日本司法大臣 第27任:1923年-1924年 | 繼任: 鈴木喜三郎 |
前任: 松室致 | 日本司法大臣 第8任:1912年-1921年 | 繼任: 鈴木喜三郎 |
司法职务 | ||
前任: 富谷鉎太郎 | 大審院長 第11任:1921年-1923年 | 繼任: 橫田秀雄 |
學術機關職務 | ||
前任: 松岡康毅 | 日本大學校長 第2任:1923年-1933年 | 繼任: 山岡萬之助 |
其他職務 | ||
前任: 秋月左都夫 | 無窮會會長 第2任:1924年-1945年 | 繼任: 清水澄(代表理事) |
前任: 大隈重信 | 東洋文化學會會長 第2任:1922年-1943年 | 繼任: 加入無窮會 |
前任: 田尻稻次郎 | 修養團團長 第2任:1924年-1936年 | 繼任: 二木謙三 |
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